キムラタイヤとは
車に強く興味を持つきっかけ
─── upbringing
1968年(昭和43年)に父親である木村保が木村タイヤを設立。
車のパンク修理を専門とし、父と母は毎日タイヤ交換とパンク修理をしていました。
当時の私(中学一年)は、どちらかというと車よりも音楽に興味があったので、中学では吹奏楽部に入部。
そこでは毎日のようにサックスを吹き、楽しい日々を過ごしていました。
そんな時、当時大ファンであった日本のモデル・小川ローザと、憧れのレーシングドライバー・川合稔が結婚。しかしその半年後、鈴鹿サーキットでトヨタ・7のテスト走行中に悲劇の事故死。
私はすごいショックを受けたと同時に、何故かモータースポーツへの興味もどんどん膨らんでいき、いつの間にか音楽以上に関心を持つようになっていきました。
中学3年の時には、音楽の道ではなく車の世界に携わりたいという気持ちの方が大きくなり、工業高校の機械科へと進学。その後、トヨタ自動車・東富士研究所に入社し、車の世界へと足を踏み入れました。
楽しかったトヨタ時代
─── Toyota Era
その時代、トヨタ自動車も世の中の流れには逆らえずレース部門は解散。社内には世界に誇るニュートヨタ7ターボが山積み(スクラップ)状態でした。
入社したばかりの私にとってその光景は、まるでこの世の終わりのようにも見えたことを今でもハッキリと覚えています。
しかしトヨタにいたこの5年間はとても充実しており、車以外でサッカーや陸上。バレー、駅伝、少林寺、スキー、潜水、社交ダンス、そしてジャズバンドにハードロックバンドなど、非常に多くのことを経験させてもらえました。(余談ですがロックバンドでは県知事賞をいただきました)
両親の営む木村タイヤへ…
─── Joined Kimura Tire
楽しかったトヨタ自動車に別れを告げ、両親の営む木村タイヤに務めることになりました。
主にスポーツカーに力を入れた店づくりへと変更し、1985年(昭和60年)には国道一号線沿いに移転。
そこでは新たにメカニック1名と若い女性事務員1名を加え、若者たちが入りやすく、そして楽しく、どんな車の相談にも対応できる店づくりへとシフトしていきます。
スポーツカーなどを思う存分走れる機会を提供したく、それは公道や峠などではなくレース場という場所で、スロットル全開で走ることができる走行会の開催も行ってきました。
当時日本一を誇る内容であり、初心者からプロドライバーまでが楽しめる走行会を100回くらい開催し、延べ1万人の参加者たちに楽しんでもらいました。
現在、私は66歳(2022年時点)。いつまでもスポーツカーに乗っていたい、何歳になってもサーキットを走りたい、私にとって車とはそこまで魅力のある最高のパートナーです。
そして設立から54年(2022年時点)。これまで色々なことがありましたが、最高の仲間たち、そして素敵なお客様たちに恵まれてきたことが、今日までキムラタイヤを続けられてきた最大の理由でもあります。